
川中島の戦い - Wikipedia: "川中島の戦いの主な戦闘は、計5回、12年余りに及ぶ。実際に「川中島」で戦闘が行われたのは、第二次の犀川の戦いと第四次のみであり、一般に「川中島の戦い」と言った場合、最大の激戦であった第4次合戦(永禄4年9月9日(1561年10月17日)から10日(18日))を指すことが多く、一連の戦いを甲越対決として区別する概念もある(柴辻俊六による)。でも日本人にはとても人気がある。なぜか?
後年、天下統一をなした豊臣秀吉が川中島の地を訪れた。人々は信玄と謙信の優れた軍略を称賛したが、秀吉は「はかのいかぬ戦をしたものよ」となじった、という話が伝わる。狭い川中島を巡る局地戦で、信玄と謙信が兵力と10年以上の時間を浪費したため、いたずらに信長の台頭を許す結果になったと、古来、多くの論者がこの戦いを評している。それゆえに、信玄・謙信は、所詮は地方大名にすぎず、天下人となった信長、秀吉の方が器量は遥かに上であると断ずる作家や評論家は多い。"
武田と上杉の戦を示した地図を見ると、戦のほとんどは信州(長野県)で行われたことが分かる。長野県の人はエライ迷惑だっただろうが、信州は一種の「舞台」で、その舞台に武田と上杉という千両役者が登場して「見得」を切り合っていたと言うところか。歌舞伎と同じ。だから江戸庶民に人気があったのである。
その点、冷徹な戦略家であり確実に結果を出した源頼朝はあまり人気がない。ニッポン人は昔から「結果重視」は嫌いなのである。
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